バタヤンこそ、日本のギターレジェンド

20年ほど前、大阪の中座でホンモノのバタヤンを観た日から、ずっとバタヤンの映画を撮りたいと思ってきた。バタヤンが90歳を目前にしたある日、そのチャンスがやってきた。今しかない、ラストチャンスだ !
その歌声とギターの音色が戦前から今日に至るまで日本人の心を揺さぶってきたことはいうまでもないが、バタヤンがエレキギターを持って歌い始めたのは、マディ・ウォーターズより早い。「ギターを持って歌ったら女にモテるやろうな〜」どうやらエレキギターを持つ動機は、古今東西変わらないらしい。口を開けば常に女性の話になるバタヤンだが、ひとたび事が音楽になるとその姿勢は真剣で厳しい。ステージの上でチューニングが始まると、観客そっちのけで納得いくまで終わらない。「ボチボチやれや〜」と客席から声がかかる。バタヤンこそ、日本のギターレジェンドだ。聞くところによると、今もモテモテの毎日らしい。映画は、まさに旬のバタヤンを伝えたつもりだ。

監督 田村孟太雲

【バタヤンプロフィール】
 1919年(大正8)1月1日、三重県松坂市に10人兄弟の9番目として生まれる。
3歳の時に父が他界。8歳の時、一家は大阪の鶴橋で職人をしていた長兄のもとに移り住むが、その兄が蒸発。おからと紅しょうがしか食べられない極貧生活のために栄養失調となり、トラホームで右目の視力を失った。
 13歳になると名古屋で薬屋、パン屋、鉄工所と職替えしながら丁稚奉公を始める。もともと歌好きな少年だったが、16歳の時、松平晃のレコード「忘られぬ花」を聴いてギターの音色に魅了される。しかしギターはとても買えない。ベニヤ板をギターの形に切った手づくりギターで練習、仕事の合間に川辺で歌うようになる。18歳の時、日本にはまだなかったエレキギターを持って歌うディック・ミネの姿に憧れる。19歳でアマチュア歌謡コンクールに出場し、応募者四千名という競争を勝ち抜いて見事に優勝。当時の歌謡界は、専門的な音楽教育を受けずには歌手になれないというのが通常という狭き門。その後、上京してポリドールレコードと契約し歌手の道へ。
 1939年6月にリリースしたデビュー曲「島の船唄」は大ヒットし、その後も「大利根月夜」「別れ船」とヒットを飛ばしてスター街道を爆走。また、歌だけではなく多数の時代劇や喜劇映画にも出演。舞台公演には大勢のファンが詰めかけ、人気を不動のものとした。
 戦時中には北京やハルピンなどの戦地を慰問し、ギターを弾きながら歌うスタイルを確立。検閲官に歌を「軟弱だ」と言われて誇りを傷つけられたことから反発し関西に拠点を移すが、名古屋と神戸と大阪で大空襲に遭遇。命からがら逃げ延びて九死に一生を得た。
 戦争が終わり歌謡界が落ち着きを取り戻すと、ポリドールからテイチクに移籍。1946年10月にリリースした第一弾「かえり船」は大ヒット。1949年には大阪劇場で初のワンマンショーを行い、1950年には映画『月の出船』で初主演を果たす。その後しばらくはヒット曲に恵まれず出演映画も激減。1955年には最愛の母が他界して辛い時期を送るが、1962年11月リリースの「島育ち」でカムバックを果たし、翌年にはNHK紅白歌合戦に初出場。その後も毎年新曲を出し、1975年には「十九の春」が爆発的なヒットとなる。ラスベガスやブラジルなどの海外公演も精力的に行い、1979年にはカジノで大金を掴んで大きな話題となった。
 1967年に大阪劇場が閉鎖されてからしばらく大阪では公演を行わなかったが、ファンのためにと1982年から毎年、中座で定例公演を実施。中座が閉鎖すると松竹座に出演し、かつての人気歌手が次々とスターの座を降りていく中で、熱烈なファンに支えられて現役スター歌手として歌い続けた。
 1995年には日本歌手協会の5代目会長に就任。華々しい歌手人生の一方で、恋多き男としても名を馳せた。結婚は4回、噂になった女性は数知れず。紆余曲折ありながらも今は、妻、娘、息子と幸せな家庭を築いている。

バタヤン ギター伝説
文・今野政司(音楽ルポライター)
● ギターとの出会い
  昭和10年(1935年)、田端少年は、池上利夫(松平晃氏の別名)のレコード「忘られぬ花」を聴き、歌の伴奏で奏でられているギターの名演奏に感動し、ギターという楽器の音色に完全に魅了された。 "ギターちゅうのは、なあぁぁんと、いい音がするんだろう"と思ったそうだ。そのギター・パートを演奏したのは竹岡信幸氏。彼は偉大な作曲家、古賀政男先生の後輩であり、当時明大マンドリン倶楽部きっての名プレイヤーとして名を馳せていたギタリストであった(後に作曲家として「赤城の子守唄」、「支那の夜」などを作曲)。当時、一番安い値段のギターが6円50銭。田端少年の給金は50銭。とても買うことが出来ないので、彼はベニヤ板をギター型に切り抜いて、木綿糸を弦の代わりに張って、ドレミを口ずさみながら、自己流で指の押さえ方の練習に励んだそうである。後に、バタヤンは、このベニヤ板製のギターもどきを"イター"と呼んで、笑いを呼んでいる。
 田端少年は給金を貯めて、一年後に、一番値段の安かった鈴木ギターを購入する。このギターは大きくてハッキリした音を得るために、古賀政男先生によって開発された"鉄線ギター"と呼ばれるもので(本来、ガット弦を張るクラシック・ギターにスティール(金属)弦を張ってある)、古賀メロディーと共に一世を風靡したギターあった。田端少年は、古賀政男先生のギター教則本を買い求め、独学でギターを練習し、マスターしていった。
●エレキ・ギターとの出会い
昭和12年(1937年)、18歳の時、名古屋劇場で藤山一郎、楠木繁夫、ディック・ミネの各氏が出演した公演を観に行ったバタヤンは、そこで、リッケンバッカーのエレキ・ギターを弾いて「愛の小窓」を歌うディック・ミネ氏の姿を見る。ハワイアン・スティール・ギターは戦前からあった様だが、エレキ・ギター、それもソリッド・ギターを見ることはないので、それだけでもビックリしただろうが、すでにギターを弾けるようになっていたバタヤンは、そのサウンドにシビレタのである。ディック・ミネ氏はアメリカに直接注文して、このリッケンバッカーを購入したようだが、このギターはハワイアン・スティール・ギターをギター・スタイルに発展した初期のエレクトリック・ソリッド・ギター(当時はエレクトリック・スパニッシュ・ギターと呼ばれた)で、その容姿から"フライング・パン"と呼ばれるものだった。ディック・ミネ氏は歌手であったが、このエレキ・ギターの名手であり、特にハワイアン・スティール・ギターの様に弦を金属バーで押さえて、それを滑らせて彈くスライド奏法を得意としたそうで、"自分以外のレコーディングにも呼ばれて参加していたので、日本初のスタジオ・ミュージシャンだったのでないか"と、子息の三根信宏氏(井上宗孝とシャープ5のリード・ギタリスとして活躍し、現在も活動中)から伺ったことがある。話が横道に逸れたが、エレキ・ギターの存在を知ったバタヤンは、"電気ギターで、そりゃぁ、恰好良い。これは女の子にもてるやろうなぁ"と思ったそうである。
●シンガー&ギタリスト 田端義夫誕生!
 戦前の歌手デビュー当時からステージではギターを弾きながら歌っていたバタヤンだが、「別れ船」の吹き込み料の7円の中から大金5円を割いて、自ら手製のエレキ・ギターを作りあげる。厚さ2センチのエボナイトの板をギターの形に切ったボディーに、ラジオのスピーカーに使われていたマグネチック・コイルを3個用意して、2本の弦の下に1個づつ並べてピックアップ(マイク)として取り付けたものであった。この手製のエレキ・ギターは見事完成し、東京・渋谷道玄坂の東宝劇場のステージから御目見えすることとなった。
普通、歌の伴奏にギターを用いる場合、コード(和音)を同時に鳴らして弾くが、バタヤンは、分散和音で、歌のメロディーをそのまま弾く。イントロ(前奏)、ギター・ソロ(間奏)、エンディング(後奏)や歌に対するコール&レスポンスとしてメロディーを弾くので、インストゥルメンタルを弾きながら、歌のパートを歌うというブルース的なスタイルの"シンガー&ギタリスト 田端義夫"が誕生したのである。
バタヤンが、この手製のエレキ・ギターの次に手に入れたギターは、ディック・ミネ氏が使用していたアルミニューム製のリッケンバッカー"フライング・パン"。バタヤンが憧れたこのギターを、ディック・ミネ氏と一緒に活動していたアコーディオンの小泉幸男氏が所有していると聞きつけ、買い取ったのである。
その後、ギブソンのハワイアン・スティール・ギターのピックアップを、日本で作らせたボディーに取り付けたギターを手にしていたが、このギターを付き人が無くしてしまう。大阪劇場の舞台稽古のために大阪駅から乗ったタクシーのトランクに置き忘れてしまったのである。
●ベスト・パートナーとの出会い
 3日後にはステージの幕が開くのにギターが無い!この事態に、バタヤンは即座に銀座のヤマハに電話をかけた。約1週間前に、ブラッと立ち寄ったヤマハ銀座店で、なんとなく手に取ったギターが気になって、忘れられないでいたからだ。"もし、あのギターが売れていなければ…"という思いで電話をかけてみたが、幸いなことにまだ売れずにあった。"縁があったのだ"と思ったそうである。昭和29年(1954年)8月のことである。
「新品を買ったけど、値段は忘れたなぁ。最初に見たときは生音でしか弾かなかったけど、"いいなぁ、素敵な音だなぁ"と思ったし、肝心な指板もあつらえたようにしっくりとしていた。ボディーの感じがぴたりと僕に合っていて、軽くて持ちやすいのも気に入っていたんだ。実際にアンプにつないで弾いたら、やっぱり、僕の好みの音だった。これまで手にしたギターの中で、これの音が最高だね。このギターは、音がすごくきれいなんだよ。ちょっと割れかかった様な、割れない様な、そんな音になっていて、それが僕の歌に合うんだな。これは、僕のレコーディングには絶対に必要なギターだね」
それから50年以上も愛用され、このギターはバタヤンのトレードマークとなっていったのである。
●トレードマークとなったナショナル・ギター
 バタヤンのトレードマークとなったこのギターは、"ナショナルNo.1124モデル"で、"ナショナル"というブランドは、当時からハワイアンやカントリー、ブルースで用いられるリゾフォニック・ギターのステータスとして、"ドブロ"と並んで、ミュージシャン達の間では有名な存在であった。
"ナショナル"は、1925年にロサンゼルスで設立されたナショナル・ストリング・インストゥルメント・カンパニーのブランドである。この会社はチェコスロバキアからの移民であるドペラ兄弟によって設立されたもので、ジョン・ドペラが発明したリゾフォニック・ギター(音量を増幅するための共鳴装置つきのギター)を製造するためにスタートする(初期のメンバーに、後に"リッケンバッカー"を立ち上げるアドルフ・リッケンバッカー、ジョージ・ビーチャム、ポール・バースも参画しており、彼らは31年に独立した)。ところが、2〜3年後にジョン・ドペラが退職してドブロ社を興して"DOBROドブロ"ブランドを立ち上げる。ちょっとしたお家騒動であったようで、30年代に入るとすぐに、両社は合併してナショナル・ドブロ社となり、家業ともいえるリゾフォニック・ギターを、"ナショナル"、"ドブロ"の両ブランドで販売するようになり(リゾフォニック・ギター自体が、ナショナル・スティール・ボックスとかドブロ・ギターと呼ばれるのは、パイオニアとして長く独占的に世に送り出した歴史からきている)、それとともにソリッド・ボディーのラップ・スティール・ギター(椅子に座って膝に乗せて弾くタイプのスティール・ギター)や、エレクトリック・スパニッシュ・ギター(当時、横に抱えて弾くタイプのギターをスパニッシュ・ギターと呼んでおり、ラップ・スティール・ギターをこのタイプに発展させたものもエレクトリック・スパニッシュと称した)の販売もはじめている(ナショナル・ドブロ社は、その後、1943年に"ヴァルコ"に発展し、"スプロ"、"エアライン"などのブランドのエレクトリック・ギターも発売するようになる)。
バタヤンが購入したNo.1124モデルは、"ナショナル"が1952年から製作されるようになったソリッド・ボディー・エレクトリック・スパニッシュ・シリーズの中に位置するモデルで、カッタウェイつきボディーに2個のピックアップを取り付けた"ダブル・ピックアップ/カッタウェイ"を特徴として誕生した。
 資料によると元々はビニール・カバーのフローティング・タイプ(ボディーより浮かせて取り付けるタイプ)のピックアップが2個取り付けられており、使用するピックアップをフロント/フロント+リア/リアと選ぶことができるレバー・タイプのピックアップ・セレクト・スイッチと、それぞれのピックアップのボリューム(音量)とトーン(音色)の両コントロールが装備されたギターで、生産期間・生産本数の少ない非常に希少な存在。バタヤンとこのギターの出会いも運命的な出来事だったといえよう。
●長い時の流れの中で
バタヤンのギターは、50年以上、愛用され続けて来た。その間に、少しずつ変貌していく。まず、あまり使わないという理由から、2個あるピックアップのうち、フロント・ピックアップ(ネック側のピックアップ)は取り外され、それにともないフロント・ピックアップ用のボリュームとトーンの両コントロール、ピックアップ・セレクト・スイッチも取り去られた。ペグ(弦巻)もオリジナルのものからグローバ社製のロトマチック・モデルに換えられ、弦を固定するテイルピースも、ブランコ・タイプ(通称)から、テンション(弦の張りの強さ)を調整可能なストップ・テイルピース・タイプに換えられており、ボディー側で弦を支えるブリッジも、木製のものから、オクターブ・ピッチの調整可能なギブソン・チューン0マチックに換えられるという、実用性を向上する部品のグレードアップもはかられた。
 ネック裏の、ナット〜1フレット部分と、12〜14フレット部分は、親指で押さえることでネックの木がすり減ってしまったので、同じ種類の別の木を埋めて削り直してあり、ボディー・トップのネックとのジョインと部分傍にはマイク・ホルダーを取り付けようとした痕跡が残っている。また、ヘッドに取り付けられていた、金属風のブランド・ロゴや、ネックとボディーのジョイント部のカバーも兼ねていたネック・ヒールは、時とともに失われ、フレットや、ボリューム/トーン・コントロールの電気パーツなどは、度々、交換されてきた。ボディー裏側の周囲は摩擦によって削られ、ボディー表面の右手袖が当たる部分やネック裏の親指で押さえる部分の塗装は剥れており、使い込んだゆえの傷も風格となっている。
 このギターを抱え、少し歪んだサウンドで自ら伴奏する弾き語りはまさに日本のブルース。曲はレコード会社の専属作家が書き、それを歌手が歌う分業が当然という時代に、自作曲をヒットさせてもいる。シンガー&ギタリストの草分けというだけでなく、シンガー&ソングライターの草分けでもあったのだ。バタヤンは時代を先取りしただけではなく、完全に時代を超越した革新的な音楽家(ミュージシャン)なのである。そして、偉大なエンターテイナーであるのだ。



【収録曲解説】
1 玄海ブルース【昭和24年('49)7月リリース】作詞:大高ひさを/作曲:長津義司
はてしない海への夢と玄界灘への荒海に生命をかけて生きる男の負けじ魂を、力強く歌いあげた歌です。敗戦後の日本は漁業権が制限され、船舶移動も禁止となり、世界の海から閉め出されてしまいました。しかしアメリカ国内では日本を経済的に自立させるべきだという意見が強まり、この年の末に船舶での民間輸出が復活。明るいニュースを受けてこの曲は大いにヒットし、バタヤンのマドロス歌謡のトップ・ソングになりました。男らしくカラッとしていて、そのくせ、その底に波のしぶきに濡れたような哀感を秘めていて、聞く人の胸にしみこんでくるバタヤン節です。
2 島の船唄【昭和14年('39)6月リリース】作詞:清水みのる/作曲:倉若晴生
バタヤンのデビュー曲です。当時のレコードはA面とB面で歌手が違い、新人を売り出す時はA面にベテラン、B面に新人となるのが当たり前でした。しかしバタヤンに大きな期待を寄せたポリドールは、A面にバタヤン、B面にトップスターの東海林太郎を組み合わせました。
「僕の声質にピタリの曲で運が良かった。ディレクター、作詞、作曲、それに発売タイミングが良かったことで私の一生を左右する大ヒットになりました」と、後にバタヤンは話しています。
3 十九の春【昭和50年('75)6月リリース】沖縄俗謡歌/補作詞:本竹裕助
昭和50年、沖縄公演の折、バーで女性が歌っていたこの曲を聞いてバタヤンは「これはすばらしい」と直感し、譜面にとってテイチクに持ちこみました。この曲は、昭和47年に与那国出身の歌い手・本竹祐助がレコーディングして沖縄で発表。元唄は奄美群島の与論島で歌われていた「よろん小唄」で、その源流は明治の末期に全国的に流行した演歌師の添田唖蝉坊による「ラッパ節」であるという説、もしくは沖縄の石垣島や鳩間島で歌われている失恋歌(悲恋歌)ではないかという説があります。バタヤンが歌って全国に知れ渡り、昭和50年度のレコード大賞では特別賞を受賞。沖縄を代表する歌の一つとなりました。
4 あなたの小指【昭和60年('85)12月リリース】作詞:吉田旺/作曲:岡千秋
ちょうどこの時期、バタヤンは愛人スキャンダルが持ち上がりマスコミの注目の的となっていました。そのタイミングで、愛人の切ない想いを歌ったこの曲の発表が決まりました。こぞってマスコミがバタヤンに取材攻勢をかけますが、バタヤンはまるで動じず、ユーモラスなマスコミ対応で話題をさらいました。
5 赤とんぼ【昭和43年('68)12月リリース】作詞:三木露風 /作曲:山田耕筰
バタヤンは、たくさんの童謡をおさめたアルバムを出しています。バタヤンが貧しかった少年時代、姉が芸者として身売りをすることになりました。出発の日の駅まで送る道すがら、悲しみを紛らわそうとしてバタヤンと姉は二人でこの曲を口ずさんだのだと、バタヤンは自叙伝「オース!オース!オース! バタヤンの人生行路」にて振り返っています。
6 浜千鳥【昭和43年('68)12月リリース】作詞:鹿島鳴秋/作曲:弘田龍太郎
バタヤンがレコーディングした童謡の中でも、特に人気があるのが「赤とんぼ」とこの曲です。日本を代表するオペラ歌手の岡村喬生さんは「クラシックでもない、童謡でもない、流行歌でもない、こんな歌い方もあったのか…」と感激し、バタヤンとのジョイント・コンサートを開催。NHKの音楽番組でバタヤンがこの曲を歌った時は、千通を越える感動の投書が寄せられました。
7 男の純情【昭和46年('71)6月リリース】作詞:佐藤惣之助/作曲:古賀政男
オリジナルは昭和11年10月に日活映画『魂』の主題歌として藤山一郎の歌で発売されました。昭和流行歌の代表的作家である古賀政男に心酔していたバタヤンは、古賀の曲を歌いたくてカバーをしようと決めます。古賀政男は「バタヤンの声には涙がある」と絶賛。バタヤンは、「あまたの歌手が古賀メロディを気軽に歌っているが、本当は難しいですよ。いいお手本になるのは藤山先輩の歌だけで、プロ歌手でやっていくにはこれぐらいの勉強はしなさいよといわれているような歌です。『男の純情』がちゃんと歌えたら一人前の歌手ですよ」と話しています。
8 雨の屋台【昭和25年('50)9月リリース】作詞:矢野亮/作曲:利根一郎
当時、船にまつわる歌の多かったバタヤンとしては異色の曲です。レコード会社では「バタヤンのイメージをそこなう」と反対論もありましたが、はじけるようなバタヤンの歌唱は絶妙で、新たな一面を切り開くことになりました。歌の内容は「雨に降られた荒くれ男が、やり場のないむしゃくしゃした気分を晴らす為に、屋台にもぐりこんで酒をあおりながら娘にくだをまく」というもの。戦後間もなくの混乱した社会風潮を反映し、デタラメな生活を送る人々の退廃的な雰囲気が漂います。
9 梅と兵隊【昭和16年('41)1月リリース】作詞:南條歌美/作曲:倉若晴生
バタヤンの、戦時歌謡の最大ヒット曲です。早春の中国大陸で梅によせて母や故郷を偲ぶ若い兵隊の気持ちを、繊細に表現しました。昭和16年9月、バタヤンは陸軍の命令で北支(現中国華北地方)の最前線に慰問に行き、この曲を歌いました。伴奏がアコーディオンしかなくステージとは勝手が違います。歌いやすくならないかと何気なく持っていたギターを弾いて歌ってみると、これがとても良かったのです。その経験が、今のスタイルを生む原点となりました。
10 骨のうたう【レコード未発表】詩:竹内浩三/作曲:田端義夫
詩人・竹内浩三の作品にバタヤンが自ら曲をつけたものです。竹内浩三は大正10年三重県生まれ。戦時中は陸軍に所属し、25歳という若さでフィリピンにて戦死するまで、多くの詩や散文、日記といった作品を書きました。映画の中では、歌詞中の「ひょんと死ぬるや」の"ひょんと"をどう表現するかということにバタヤンが苦心したというエピソードが語られます。「人があっけなく死んでしまう戦争の残酷さを伝えたい」という思いから、戦後数十年の時が流れた今もなお、バタヤンはつとめてこの曲をステージで歌うようにしています。
11 かえり船【昭和21年('36)1月リリース】作詞:清水みのる/作曲:倉若晴生
ポリドールでデビューしたバタヤンのテイチク移籍第1弾で、一世を風靡する大ヒットになりました。この歌にはバタヤンが「ほんとうに歌手になってよかった」という思い出が詰まっています。戦後間もないある日のこと、バタヤンが大阪のプラットホームに立っていると、復員兵を乗せた列車が入ってきました。ボロボロになった彼らの姿をバタヤンが痛ましく眺めていると、何と駅のスピーカーから自分が歌った「かえり船」が流れてきたのです。兵隊達はジッと耳を傾け、涙を流している者もありました。その光景にバタヤンは大感激。本人にとっても歌謡界にとっても、特筆すべき作品です。
12 モナリザ【レコード未発表】作詞:Raymond Evans/作曲:Jay Livingston
バタヤンは英語の歌も歌いました。オリジナルは1950年(昭和25)にナット・キング・コールがヒットさせたジャズナンバー。1965年(昭和40)に他界したナット・キング・コールは、バタヤンと生まれ年が同じです。バタヤンは彼を大変に尊敬しており、好んでレコードを聴いていました。
13 島育ち【昭和37年('62)11月リリース】作詞:有川邦彦/作曲:三界稔
昭和36年、バタヤンは東京の沖縄料理店で「島育ち」を聴いて、「この曲はイケる!」と直感しました。さっそく採譜してテイチクにレコーディングの話を持ちこみましたが、歌謡界ではミッキー・カーチス、山下敬二郎、平尾昌晃らが登場してロカビリーブームの一大旋風が巻き起こっていました。そのため、バタヤンは「こんな歌は売れないよ」と猛反対されます。しかし「それならお金はかけないから」と、バタヤンは自身のギターと三味線、太鼓だけというシンプルな編成でレコーディングして、アレンジまで引き受けました。公表すると100万枚の大ヒットを勝ち取り"バタヤン奇跡のカムバック"と囃されました。
14 バタヤンのツキツキぶし【昭和54年('79)12月リリース】作詞:門井八郎/作曲:伊藤雪彦
昭和54年、バタヤンはラスベガスで29万ドルの大当たりを出して、時の人となりました。そこで便乗企画としてレコード会社がこの曲を企画。売り文句は「ツキのおすそわけ」でした。ツキに恵まれてこの曲がヒットしたかどうかは、さだかではありません。
15 大利根月夜【昭和14年('39)11月リリース】作詞:藤田まさと/作曲:長津義司
歌のジャンルはいろいろありますが、戦前の一時期、一世を風靡したのが流れ者のやくざを主人公にして義理人情の世界を書いた"股旅もの"です。その筆頭に挙げられるのが、侍やくざである平手造酒(ひらてみき)を歌ったこの曲。侍の平手造酒は剣豪・千葉周作の道場を破門されて下総に流れてやくざの用心棒に身を落とし、やくざ同士の喧嘩で命を落とします。元は侍だった主人公の、故郷に対する思いや悲しみ、やりきれなさが見事に表現されたこの曲を今も、バタヤンは19歳でレコーディングしたキイのまま歌っています。「歌謡曲は主人公の人生を歌う3分間の芸術です。♪あれを御覧と指さす方に……♪のキイを下げて歌ったら、侍の気品がうせてしまうでしょう」と、バタヤンは言います。
16 ゴンドラの唄【レコード未発表】作詞:吉井勇/作曲:中山晋平
オリジナルは大正4年に発表された曲です。劇団「芸術座」公演の劇中歌として生まれ、座長の松井須磨子が歌って流行しました。作詞は、歌人で石川啄木らなどと文芸誌の創刊に当たった吉井勇です。戦後には黒沢明監督の映画『生きる』で使用され、広く知られるようになりました。この映画で使用した映像は、平成9年・宮崎県・高千穂でのソウル・フラワー・モノノケ・サミットとの共演です。
17 ズンドコ節(街の伊達男)【昭和22年('47)2月リリース】作詞:佐々木英之助/作曲:能代八郎
戦後間もなくのこと、バタヤンが巡業のため大阪天保山から四国へ渡る連絡船に乗りこむと、闇屋(戦後の物資乏しい時期に多くいた違法取引を行う商売人)の一団が酒をのみながら猥歌を歌いだしました。心ひかれたバタヤンは急いで採譜。歌詞を変えてテイチクへ馳け込み、自分でアレンジしてギター2本だけで吹込んだのがこの曲です。発売するや大ヒットし、ラジオの『のど自慢』でもよく歌われました。その後、この明るい長調のメロディを短調にして別の歌詞をつけた"東京ずんどこ"が生まれ、小林旭の「アキラのズンドコ節」、ザ・ドリフターズの「ドリフのズンドコ節」、氷川きよしの「きよしのズンドコ節」として有名になりました。この映画のエンディングで使用しているのは、発表当時の音源で、戦後直後にバタヤンはこのようなモダンなサウンドを聞かせてくれていたのです。
18 AIN'T GOT NO HOME【昭和48年('73)リリース】作詞・作曲:CLARENCE "FROGMAN" HENRY /歌と演奏:THE BAND
1956年、R&Bシンガーのクラレンス"フロッグマン"ヘンリーが歌い、ビルボード20位にチャートインしたヒット曲。1973年、ザ・バンドの6枚目のアルバム、『ムーンドッグ・マチネー』は全曲がアメリカのルーツ・ミュージックをカバーしたもので、そのオープニングを飾ったのがこの曲。リード・ヴォーカルは『ザ・ウェイト』の名唱で知られるドラムスのリヴォン・ヘルム。昨年4月に惜しくもこの世を去りました。

【出演者プロフィール】
■ 浜村 淳(パーソナリティ/映画評論家)
1935年(昭和10)、京都府生まれ。リズミカルで柔らかな節回しと誰にでも分かりやすい言葉選びが人気で、関西ではその名を知らぬ者はいないと言われる存在。学生時代からアルバイトで歌の司会をしており、それを見ていた芸能関係者によるスカウトで芸能界に入った。出演番組は、ラジオ大阪「オーサカ・オールナイト 夜明けまでご一緒に」(1966〜1968年)「サタディ・バチョン」(1970〜1991年)、TBSラジオ「お待たせしました浜村淳です!」(1996~1998年)「古今東西!浜村淳」(1998〜2000年)、MBSラジオ「ありがとう浜村淳です」(1974年〜)、NHKラジオ「かんさい土曜ほっとタイム」(1995年〜)など多数。特に現在も続いている長寿番組「ありがとう浜村淳です」は、聴取率全国ナンバーワンを獲得したこともある有名番組。放送開始から40年目を迎えギネス申請も行う。また映画評論家としては、内容を細かく語る解説が特徴。あらすじ全てを話してラストシーンまで明かしてしまうこともあり、タブーをおそれない自由な語り口とあふれる映画愛に魅力を感じるファンも多く、2004年にはCD「浜村淳の甦る心の名画座」として発売された。落語や古典芸能にも詳しく、田端義夫との交流は40年にも及ぶ。

■ 菅原都々子(歌手)
1927年(昭和2)、青森県生まれ。10歳で作曲家・古賀政男の養女となり、テイチクレコードよりデビュー。13歳で養子縁組を解消し、菅原都々子名義で歌手活動を続ける。「アリラン」「トラジ」の韓国メロディーを日本で初めて紹介し、1955年には「月がとっても青いから」が大ヒット。父・陸奥明が田端義夫の「里恋峠」を作曲した関係から、田端とは公私にわたり親しい間柄である。

■ 白木みのる(コメディアン)
1934年(昭和9)、島根県生まれ。中学卒業後、旅の一座に参加。田端義夫の歌を歌っていたことから"マメ田端"と呼ばれ、「田端章夫」と名乗る。大劇(大阪劇場)の支配人にスカウトされ専属タレントとして活躍した後は吉本興業に移りテレビ界へ。1961年「スチャラカ社員」で人気に火が着き、1962年「てなもんや三度笠」で大ブレイク。30年以上にわたり「北島三郎座長公演」に出演し、欠かせない存在となった。

■ 立川談志(落語家)【1936〜2011年】
東京都生まれ。16歳で柳家小さんに入門、前座名「小よし」。18歳で二つ目に昇進し「小ゑん」、27歳で真打ちとなり五代目立川談志を襲名する。アップテンポでエネルギッシュな高座で頭角を表し、落語立川流を創設して家元となる。鋭い批評眼と観察力、話芸の見事さから「天才」の呼び声が高く多くのファンに愛された。多才で博識、音楽にも造詣が深い。

■ 寺内タケシ(ギタリスト)
1939年(昭和14)、茨城県生まれ。5歳にしてギターを始め、小学生の頃は電話のコイルを並べたピックアップでエレキギターを自作して演奏。関東学院大学在学中にプロ活動を開始、1962年に「寺内タケシとブルージーンズ」を結成してエレキブームの仕掛人となる。エレキギターの草分け的存在で田端義夫と2度、ジョイントコンサートを開催。現在は全国各地の高校でエレキギターコンサートを行っており、その数は1500回以上に及ぶ。

■ 小室 等(ミュージシャン)
1943年(昭和18)、東京都生まれ。日本のフォークミュージックシーンの草分け的存在で、1964年にフォークグループ「PPMフォロワーズ」を結成。その後「六文銭」などを経て、1975年に泉谷しげる、井上陽水、吉田拓郎とフォーライフレコードを設立。2011年には音楽活動50周年を迎え、記念ライブを開催。現在はコンサート活動を中心に、テレビドラマや舞台などに音楽を提供するなど幅広く活動している。

■ 千 昌夫(歌手)

1947年(昭和22)、岩手県生まれ。高校2年の春休みに上京して作曲家・遠藤実の内弟子として修行開始。ミノルフォンレコード発足と同時に男性歌手第一号として「君が好き」でデビュー。1966年発売の「星影のワルツ」、1977年発売の「北国の春」がミリオンセラーとなる。一時は実業家として名を馳せたが今は歌手業に専念し、精力的な活動を続けている。

■ 内田勘太郎(ギタリスト)

1954年(昭和29)、大阪府生まれ。1970年に「憂歌団」を結成。ブルースを基調にした独自の世界で全国を席捲し、リードギタリストとして名を馳せる。28年間の活動後「憂歌団」は無期限活動休止を発表。現在はソロライブを中心に活動しつつ、著名アーティストとのライブセッションやCM音楽の制作など活動の幅を拡げている。

■ 中川 敬(ミュージシャン)
1966年(昭和41)、兵庫県生まれ。1992年に「ソウル・フラワー・ユニオン」を結成。日本のルーツミュージックとロックが融合した、ジャンルを越えた独自の音楽スタイルを築く。1995年には「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」名義で阪神・淡路大震災への出前慰問ライヴ活動と支援活動を行い、現在も継続中。田端義夫とは、宮崎県の高千穂で共演している。

■ 瀬川昌久(ジャズ評論家)
1924年(大正13)、東京都生まれ。音楽・演劇・ミュージカル評論家。月刊誌「ミュージカル」編集長。日本のジャズ評論家の草分け的存在で銀行駐在員としてニューヨーク滞在中に本場のジャズを研究、評論活動を始める。定年退職後は舞台企画や監修にも活躍の幅を広げる。特に戦前のミュージシャンのレコードの発掘、紹介を精力的に行っている。

■ 佐高 信(ノンフィクション作家/評論家)
1945年(昭和20)、山形県生まれ。高校教師、経済誌の編集者を経て、現在は文壇で活躍中。雑誌「週刊金曜日」の編集委員として現代日本に鋭い眼差しを注ぎ続け、その対象は、経済・政治・憲法・教育・芸能と多岐にわたる。歌謡曲に対する造詣も深く、「昭和こころうた」「酒は涙か溜息か 古賀政男の人生とメロディ」などの著書もある。

■ 北中正和(音楽評論家)
1946年(昭和21)、奈良県生まれ。京都大学理学部卒業。「ニューミュージック・マガジン」編集部を経て、雑誌、新聞、放送などで世界各地のポピュラー音楽の紹介、評論活動を行っている。「ロック」「にほんのうた」「ギターは日本の歌をどう変えたかーギターのポピュラー音楽史」「毎日ワールド・ミュージック」など著書多数。東京音楽大学非常勤講師。

■ 水木 淳(司会者)
1938年(昭和8)、広島県生まれ。15歳で当時の花形である浪曲師・松平国十郎の弟子となり「松平多聞」と名乗る。3年3ヶ月目に破門されたが復帰して1年半後、司会の第一人者である宮尾たか志の弟子となり「水木淳」に改名。城卓也、井沢八郎、そして田端義夫の専属司会を約20年担当。近年は演歌歌手・笹みどりの専属司会をつとめていた。

■ 山本泰道(田端義夫後援会長)【1933〜2012年】
1933年(昭和8)、大阪府生まれ。1959年に田端義夫後援会に入ると会報の発行を開始。編集と執筆も手掛け、1963年9月の第1号から383号まで定期的に続けた。田端義夫以上に田端を良く知る男として、アルバムの楽曲解説などを手掛ける。1965年には近鉄鈴鹿駅近くにスナック「バタやんの店・船」をオープン。店は現在も夫人が引き継いで営業している。

■ 上岡龍太郎(タレント/司会者)
1942年生まれ。1960年、「漫画トリオ」を結成してお笑い芸人として活躍。その後は主に関西のバラエティ番組に出演し、多くの番組で司会を務めた。人気番組「探偵!ナイトスクープ」では放送を開始した1988年から12年間、局長として出演。2000年に惜しまれつつ、芸能界を引退している。
■ 宮尾たか志(司会)【1927〜1985年】
落語家の家に生まれ高座に上がるが、2つ目昇進を前に司会業に転身。田端義夫が大都市や大都会でステージを行う際には、必ず専属司会としてマイクを握った。また、美空ひばりや三波春夫の司会もつとめ、歌謡ショー司会業の第一人者だった。
■ 玉置 宏(司会)【1934〜2010年】
1934年生まれ。文化放送のアナウンサーとなるが退社。歌手・三橋美智也の専属司会を務め、活躍。歌謡番組「歌のアルバム」の司会を1958年から19年間担当した。「一週間のご無沙汰でした」の挨拶で親しみあるキャラクターを確立。日本司会芸能協会の会長も務めた。2003年からは「横浜にぎわい座」の館長もつとめ、広く芸能界に貢献した。
■ 山城新伍(俳優/タレント)【1938〜2009年】
1957年に東映専属の俳優となり映画デビュー。1960年のテレビ時代劇「白馬童子」で主演を務め人気者となる。バラエティ番組にも多数出演して司会などで活躍したほか、映画評論や監督としても異才を発揮した。
■ 勝山尋美(田端義夫・夫人)1951年生まれ、岡山県生まれ。父はイタリア系のアメリカ人。19歳で田端義夫と出会い、歌手としてポリドールレコードからデビュー。田端義夫の妻となり一男一女を授かる。良き音楽パートナーとして、田端を支えている。
■ 勝山(宮田)紗穂里(田端義夫 長女)1978年、東京都生まれ。幼い頃から父・田端義夫の舞台で歌うようになり、音楽に興味を持つ。高校卒業後は、田端の付き人として全国各地に同行。娘としてスタッフとして、両親を助けている。
■ 山盛利幸(田端義夫マネージャー)1948年、京都府生まれ。1970年から田端義夫のマネージャーをつとめ、良き右腕として活躍。40年もの日々を共に過ごし、戦後の田端義夫を語る上で欠かせない貴重な存在。
■ 高柳六郎(音楽プロデューサー)テイチクレコードの専属歌手をへて、テイチクでプロデューサーとして活躍。石原裕次郎、杉良太郎、田端義夫といった時代を彩るスターを次々と育てあげた。退社した現在も、歌手の指導・育成や楽曲の制作に当たっている。「日本レコード大賞」の審査員でもある。
■ 原田英弥(元テイチクエンタテインメント・宣伝部長)テイチクで宣伝部長として活躍し、数多くのヒットを輩出。田端義夫とは"男の友情"結ばれており小指関係にも詳しい。■ 後藤武久(テイチクエンタテインメント・エグゼクティブプロデューサー)フォークグループ"ソルト&ペッパーズ"をへて、テイチクに入社。制作一筋で、石原裕次郎、菅原都々子、増位太志郎、杉良太郎など数多くのアーティストを担当した。田端義夫は1999年より担当し、厚い信頼関係で結ばれている。
■ 小松永枝(テイチクエンタテインメント・田端義夫担当)1991年、テイチク入社。田端義夫担当として宣伝・制作など様々な現場に密着。田端御大と山盛マネージャーをこよなく尊敬している。田端のスケベトークをスルリとかわすのが得意(笑)。
■ 徳差裕二郎(サウンドエンジニア)1994年から田端義夫の専属として、音響デザイン、FOHオペレーション、チューニング、楽器ケア、メンテナンス、ロードマネージャーを担当する。
■ 井沼 満(ギター・リペアマン)1960年生まれ。13歳から趣味でギターを弾き始め、26歳でリベアマンの修行を開始。42歳で独立してリペア専門会社「ELMORE」を起業。エディ藩など横浜エリアで活躍するミュージシャンのギターを担当しており、厚い信頼を寄せられている。
■ 加藤一誠(田端義夫後援会/日本大学経済学部教授)1964年、京都生まれ。小学時代からバタヤンの歌を愛聴。後援会では一番の若手だが、そのバタヤンへの愛情と知識には、先輩メンバーも一目置くほど。日本大学の教授として多忙な日々を送っている。
■ 山本栄一(元「浅草中映劇場」顧問)1956年、に興行会社「中映」入社。浅草中映劇場の館長や顧問をつとめ、半世紀以上を映画館とともに歩む。2012年10月、浅草中映劇場は惜しまれつつ閉館した。

 

【スタッフクレジット】
監督:田村孟太雲 
製作:桝井省志 ステージ構成:浜村淳 プロデューサー:山川雅彦 撮影監督:長田勇市(JSC)/大沢佳子(JSC)
編集:鈴木理/菊井貴繁 録音・整音:郡弘道 音楽編集:鳥光浩樹 助監督:七字幸久 タイトルデザイン:赤松陽構造
企画協力:田端義夫音楽事務所 オフィス沙梵 勝山尋美 勝山紗穂里 テイチクエンタテインメント
配給・宣伝:アルタミラピクチャーズ
2013/日本/16:9/DCP/5.1ch/95分